96年からミニフリーク誌で連載していた記事を、下記に掲載しています。

北海道のクマです
新連載 ミニ一代おじさん大いに吠えるコラム
今や英国以上といっても過言ではないほどにミニが根付いてる日本。
非常に特別なこの状況nこれからを、真剣に考える時期が来たのだ!
とひとりのおじさんが叫んだ。そのおじさんとは、ガレージミニの
クマひげ河西氏。最近は北海道に移って新展開に忙しいが、この声は
まさしくクマの遠吠え(?)。
日本中に轟く語りの、新連載コラムがスタート.

     

1,あなたの人生変えちゃうクルマだよ

何をいちばん話したいかというと、日本のミニについてなんだ。
ショップを中心とする業界、我々にとってのお客さんであるオーナー。
その両方がつくる日本独自のミニ文化みたいなものを、もうそろそろ
真面目に考えなきゃいけないと思っていた。そこで、
「ミニ、フリーク」に頼んで、僕に、いや僕にというのは
柄じゃないから、オレで通させてもらいますけど、そのオレに何か
できないかなーと相談したんだ。そうしたら編集部が、じゃコラムを
連載しょうと言ってくれて、オレは本当はコラムが何なのか
よくわからいんだが、とにかくこういうことになっちゃったわけ。
出しゃ張るつもりはまったくないんだけど、しばらくはおじさんの
独り言に付き合ってもらうことになりました。
第1回は何から話そうか、これでも結構悩んだ。とにかくミニに
関係するすべての人々が、これからもずっと楽しくミニとかかわっていくために
考えたり話さなきゃいけないことがある。どこから始めるかひとりで
あれこれ苦労してたら、編集部のT村氏が、最初だからオレの経歴を
話せと言うんだ。オレのことなんかいいって言ったんだけど、
彼が任せろと言うんでね。恥を忍んで自分のこれまでのメカニック
人生を振り返ろうと思う。聞いたっておもしろくないって言ったんだよ、
本当に。

だいたいクルマのメカニックになろうと思うヤツは、子供の
頃からクルマが好きなんだろうね。でも、オレは違ったの。
特別な興味はなかったなあ。もっとも、オレの小学生時代はクルマが
少なかったからね。まだ木炭車が走ってたんだよ。親父の故郷が
長野県の諏訪で、夏休みに遊びに行くと岡谷の抜ける峠道で
よく見かけたんだ、坂を上がれない木炭車を。昔はクルマが
炭で走ってたんだよ。クルマの思い出というと、その木炭車と、
親戚のおじさんが買ってくれたジープのおもちゃくらい。
そうそう、クルマの排気ガス、あれはいい臭いだと思ったな、
なぜか。メカニックになるなんて夢にも思わなかったオレが
初めてクルマを意識したのは、18歳の頃。ワルだったよ、
高校時代は。結局途中で行かなくなっちゃって、なんとなく
北海道に向かっちゃったのよ。当時はさ、カナダに移住するとか
貨物船でアメリカに渡るなんてのが流行していて、で、オレも
何となく広い土地に行きたかったの。牧場でアルバイトとか
やってね。将来に対して不安だったんだろうな。
何をしたらいいのかわからなくて。金なんかないから、
北海道までヒッチハイクもしくは徒歩。
ある日、乗せてもらった
クルマが壊れたんだ。全然直らなくて持ち主はすごく弱ってるんだけど、
オレには何もできない。雇ってもらった牧場でも似たようなことが
起きて、なぜだか妙に考えちゃったんだ。このもどかしさは
何だろうって。もしかしたら、これがオレのやることなんじゃないかと、
そのとき気ずいた。とても単純なんだけどね。
そして、2ヶ月くらいして東京に戻って、田無市の修理工場に入れてもらった。
当時、大泉に映画の撮影所があってね、すごく珍しかったダッチなんかも
よく入ってきたよ。日産車が中心の工場だったんだけど、当時はまだ
ライセンス生産でつくってたオースチンA50も多かったな。
インチ工具とはその頃からの付き合いになるね。
でも、最初の3年は工具なんて触らせてもらえないんだ。
特にオレは資格も知識もなかったから、いつも洗車係。
同期入社の他3人は専門学校卒で、どんどん仕事を覚えてゆく。
つらかったなあ。ドジもおおかったよ。いっぱいあるよ、
そういう話なら。ミゼットのパンク修理に来たお客の目の前で、
空気入れすぎてバーストさせたり、ラジエーターに入れる水を
エンジンオイルを入れるフイラーから入れちゃったり。
そんなことしてるから他人のミスを押しつけられたり・・・
夜も眠れないくらいに落ち込んだよ。
そんな日々だったから、目標が見出せなかった。大卒の初任給が
1万2000円くらいで、オレは6500円。若くて金もなくて、
やることといったらリーゼントで頭固めて女の子に声をかけたりね。
家にも今さら帰れない。

こりゃまずいと思ったのは、
楽に受かると思ってた2級整備士の試験に落ちたときだった。
ディーゼルの課目を落としたんだ。3級は楽勝だったから
ナメたんだね。それからだよ、ものすごく勉強したのは。本も
少なかったから、洋書をあさりまくったな。なにしろえらく本を
読んだよ。おかげで次ぎのテストは合格して、やっと自信がついた。
それ以後は自分を磨く意欲が生まれて、腕のいい人がいると聞いた
工場を巡り歩いたんだ。技術を盗みたくて。独立して店を構える
友達の話が耳に入ってきても、その頃はジェラシーを感じなかった。
オレはとにかく腕を上げることしか考えてなかったから。
’71年あたりに、工場に籍を置きながら個別に仕事を請け負い始めた
今から思うと、あれがオレの独立の第一歩だったんだな。家のそばに
小屋を建てて、そこで修理してたから、ショップとはまるで
呼べなかったえどね。その辺りからクルマの売買も始めて、
メカニック以外のことも覚え始めた。 


大事なことを話さなきゃいけないな。オレとミニの出会いだ。
初めてミニを見たのが何年だったか忘れたけど、季節は夏だった。
工場のサービスカーをこっそり持ち出して、友達と海水浴に行ったんだ。
工具を積んで走っていると、けっこう壊れて立ち往生してるクルマと
出会ったりするの。それを、その場で直して修理代を稼ぐことも
したなあ。それで、どこの海かは覚えてないが、オレ達の乗った
トラックが、まっすぐな道でちっちゃなクルマに抜かれたんだ。
そのクルマがまたすっごく速い。道の先はクランク状の左カーブで、
あのまま突っ込んだら絶対に事故るって友達と叫んだんだ。
クラッシュ見たさもあってカーブに急ぐと、何も起きていない。
ウソだろうって向こうを見ると、そのクルマが小さくなってゆくんだ。
信じられなかったな。後で調べたら、それがミニだったんだ。
その後ミニを触る機会はずっと訪れなくて、実際にミニを
真近に見たのは、池宮自動車が母体のソックスという会社で
働いたときだった。ここの若社長の池宮さんはオレと同じ歳なんだけど、
なんというか神様みたい。すごく頭もよくて、運転もうまい。
MGのレストアが多かったんだが、ある日池宮さんがミニを
やろうといい出したんだ。今日港にクーパーSが2台着いたから
一緒に取りに行こうと誘われてね。横浜の本牧の行ったの。
そうしたら、英国ナンバーのままだけど、このまま乗ってちゃえと
いう話になって、オレは生まれて初めてミニをドライブしたんだ。
池宮さんはレースもやっていてテクニックがあるし速い。
後を追いかけるのも大変だったんだけど、とにかく運転していて
興奮しちゃうんだ。オセリチューンのエンジンにアバルトのマフラー、
ミッションのうなり、タイヤのきしみ。そのときに感じたものは、
今も忘れられない。こんなクルマだったのかという驚きと感動。
それまで何台もの英国車をいじってきたし、
フェラーリーだって乗ったこともある。なのに、この小さなクルマは
何だって3速全開にしながら叫んでたよ。夏の日に海岸線で見た
鋭いまでのコーナリングが、すぐにできちゃったんだ。
信じられないよね。そのまま東京まで走り切ったんだけど、
ドアを閉めたとき、オレはわかったんだ。ミニをやりたいってね。
オレの細かい話はもういいよな。とにかくミニと出会って、
その楽しさを知って今に至ってのは幸福だと思う。
ま、苦労は絶えなかったけどね。オレはミニで運命が変わっちゃったから、
お客さんも言うの。「あなたの人生変えちゃうよ。そのくらい
魅力あるクルマなんだよ」って。けっこうジジイになったから、
若いコが素直に聞いてくれるよ。オレは、ミニをずっと残したいと
思ってるんだ、マジで。だから、話したいんだよ。